カフェに長居したい

はてなブログSEOが強すぎてむかつくのでこっちにも転記します。シアーハートアタック的なやり方します。

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もうおやすみなさいブログ

 

 

 

今日もやってしまった。何度繰り返せばいいのか。もうそういう性格だと割り切るしかないのはわかっているんだけど、もうちょっとどうにかできそうな気もしています。

今日は特にこれと言った用事はないので、ゆっくりお昼を食べて、カフェでブログでも書いて、いろいろな夢に心踊らせながらリラックスしようと思っていました。

昼食を取る場所とゆっくりくつろぐ場所は別のところにすることが多いのですが、今日昼食に選んだお店がフードもあるカフェなので、なんならそのままそこに居座ろうと思っていました。

しかし、やっぱり難しい。チェーン点以外のカフェで長居するスキルがいまだに身につきません。友人たちにコツを教えてもらったりしたのですが、なかなか実行できません。あれって店員側は客のことどう思っているんですかね?そもそも「カフェをやりたい!」と思っている人ってどういう気持ちではじめたんでしょうか。僕がカフェやるなら「いかにお客さんがリラックスできるか」を考えます。きっとカフェを仕事に選ぶ人なんてみんな似たようなもんでしょう。でもきっとあんまりリラックスさせすぎたら回転率が悪くなって経営がうまくいかない。みたいな流れになっているんじゃないかと思います。と、そんなことを考えているから、店の回転率が自分のせいで悪くなってしまうのではないかとドキドキして落ち着きません。チェーン店の「誰が居座ろうがどうしようがどうでもいいよ」っていう姿勢が落ち着きます。

そういうわけで、そのお店は比較的早めに退店。次のカフェを探します。

やっぱりみんな考えることは同じなわけで、コーヒーが安くて、客として意識されにくいチェーン店を選びます。どこ行っても満席。そんなにカフェに行ってどうするん!?っていうくらいどこ行っても満席です。行くとこないんでしょうね福岡は。人とカフェで喋るくらいしかすることないんでしょう。それはわかります。僕もすることないもん。

空席のあるカフェを探して練り歩きます。ようやくちょっと空いているお店見つかりました。しかし、そこで僕の悪い癖が出てしまうのです。「チェーン店ばかりは飽きたなぁ。どこか普段行ったことない店に行きたい」カフェに行ってリラックスすることが目的のくせに、欲が出てきているんです。でもここで、実は矛盾が生じています。僕はチェーン店じゃないカフェはリラックスできないから長居できないのです。長居するならチェーン店しか選択肢はないはずなのです。

なのにそれに気づかない。空いているチェーン店には入らず、この世に存在しない「長居できる雰囲気のチェーン店じゃないカフェ」を探す地獄が始まるのです。結果、そんな都合のいい店が見つかるわけもなく、僕は万歩計が爆発するくらい歩くことになりました。

なんのためにこんなことしているのか途中でわからなくなって、「俺はこんな、なんでもない日に死ぬんだろうなぁ」とか考えながら歩いていました。病気かな?

しかし、1時間くらい歩いたところでようやく見つかりました。もうチェーン店でいい。座りたい。と思った時見つけた、キャナルの無印カフェが満席だったとき、キレて全員無印にしてやろうかと思いましたが、実行しなくてよかった。こんな素敵なカフェに入れたんだから。

そこで気づきました。狙い目は「カフェがメインではないお店のランチが終わったくらいの時間帯」だということを。すると、そこそこの広さだし、店員も「そんな長居する店ではないけど、今どうせ他にお客さんこないし」という気持ちで優しく僕を包んでくれるのです。

きっと神様が僕にお店を紹介してくれたんですね!きゅるん!

きゅるんとか言ってみましたけど、どう考えても歩かせすぎです。一体神は何を僕に期待したのでしょうか。

おやすみなさい

 

運命のカレー

自然主義なところがあるので、「身体の声を聞く」みたいなからだ巡り茶的な意識になることが度々あります。

最近異常なまでに「カレー」を食べたくなります。これは身体がカレーの何かを欲しているからでしょう。

「何食べたい?」って聞かれたら少し考えるフリをした後、「カレーかなあ」と言っています。本当はカレーで決まっているのですが、天邪鬼が出ちゃいます。カレーって言いたくないんです。カレー好きに怒られそうですが、いつもカレーばっかり食べたがっていると、なんかどんくさい感じがするんです。黄レンジャーのせいでしょうね。

自己嫌悪に陥ったのは、同部署の方たち6人が、ささやかな歓迎の意味を込めてランチに誘ってくれたときに、「カレー」って言ってしまったことです。必死であらゆる手を尽くして近所の6人入れるカレー屋さんを探してくれました。でも、やっぱりそんな都合よくカレー屋さんがあるわけがなく、「ごめんね。カレー屋さん探したんだけど、なくて···カレーも食べられるところにしたよ」って近所のホテルのランチビュッフェに招待してくれました。この時ばかりは両手で皿を持ち、そのまま自分の頭で皿を割りたい気持ちになりました。そして赤いルーを流しながら「うーんごめんなさい!めんどくさいこと言った僕にはちょうどいい激辛!」とか言って場を収めたかったですが、お店の人に血を掃除させるのも悪いのでやめました。

なんにせよ、そのくらいカレーを食べたいのです。ただ、不思議なことに、食べてないわけではないのです。一人の時に何度となくカレーを食べています。インド人が経営しているナンタイプのカレーも食べたし、それこそココイチに行きました。でも、なぜかカレー満足が得られないんです。食べても食べてもなんかこのカレーじゃないってなるんです。これは怖いですよ。どこのカレーを食べればいいのか?満足を得るまでカレーを求めさまよい歩くことになります。

 

そして福岡のあらゆるカレーを食べ尽くしても、何故か収まらないカレー欲。

そんな中、偶然たまたまいい感じになった女の子と付き合うことになる僕。そして、その子が初めて作ってくれた手料理がカレー。そのカレーを食べた僕は涙を流しこう言うのです。

 

「FOUND」

 

ロマンティックファイネスト K·O!!!

 

はぁ。書くことねーんだこれが。

 

おやすみなさい

日記つけはじめます。完全に日記です。

お金の管理ができてなさすぎるので日記をつけることでどこで支出しているかわかるようになるかと思って更新しています。

 

本日はもうこれ以上寒くしないでって祈るほどの寒さでした。特に海沿いを歩く時は潮風が自分を飛ばすために吹いているのではないか?と思うほどの強さで、悲しくもないのに右目からティアドロップでした。

 

仕事については管理ができてないなあと思うことがありました。落ち着いて考えればわかることなんだけど、あとでトラブルが起きることが嫌なら、めんどくさくても人が出してきたもの全てに目を通す必要がありますね。もう一回自分が作り直すくらいの気持ちで他人の資料を見ると、トラブルは減ります。

 

夜ご飯はコンビニ飯です。帰り着く時間が20時近くになると一気にやる気が失せるので、自炊なんて全くしません。でも、この食生活をやめたいという気持ちは日に日に強くなって生きます。コンビニのごはんを食べると、食後になんとも言えないモタれが起こります。多分何か食べるとよくないものが入っているんだと思います。先日行った朝倉郡の畑だらけの中にポツンとかまえる自然ど真ん中なカフェで食べたごはんは、すごくこだわった料理ではなかったけど、食後に気持ちがほっこりするような満足感がありました。その人が食べたものによって人間は作られるとはよく言ったもので、自然のものを食べるときっと心も体もいい方に向かうんだろうなあと感覚でわかります。

最近スプラトゥーン2をすることがめっきり減っていて寂しいです。時間がないということではなく、気分が乗らない時期に入ってしまいました。その代わりに何をしているかと言うと、MBTIやHSPやらの心理的なことを調べ漁っています。知的好奇心もありますが、自分という人間を理解するために多くの時間を割く人生だなあと思います。

 

おやすみなさい。

脳みそのクラウド化

人工知能の発達と、人体の機械化に興味がある。

おお。そんな未来がやってくるのか。と感慨にふけっていたけど、ふと、「実は既に我々は機械化しまくっているんじゃないか」と思った。

原始人の時に肉体を使ってできていたことを道具の進化によってできなくなっている時点で機械化していることと同じだよな?

特にそう思ったのが、覚えることと覚えないことを取捨選択して、覚えないことは完全に脳から除外している節があること。思い出とかは記憶しているけど、漢字とかことわざとか、インターネットで検索すれば瞬時に調べることができることは脳から除外している。だからネットがないとろくに漢字もかけなくなりつつある。どんどん自分の脳みその力が衰えているような気がしている。柔軟性とか汎用性がなくなってきている。

これがちょっと怖い。脳みそに本来入れておくべき知識の8割をネットに依存しているので、日常に瞬発性がないんだ。瞬発性は全てにおいて関わってくる。会話の質であったり、その時の感動であったり。
会話の質はテンポの良さであったり、言葉選びのセンスであったり、繋がる話題の豊富さによって決まる。それを担うのが瞬発性。いわゆる頭の回転の速さ。これが失われているんだ。

ネットで検索する癖を直そうと思う。正解への最短を求めすぎて、考えてない。

全くすっとんきょうな考え方から誤った回答を出して、大失敗することが必要なんだ。

器が大きい人はなかなかいない

器が大きいという言葉がある。一般的に小さいことに動じなかったり、いろんなことを許すことができる人を指す。
だが、これが履き違えて使われることが時々あり、ちょっと気になっている。

ただ怒らない人、気にしない人、鈍感な人を器が大きいと言うのは間違っていると思う。それは器が大きいのではなく、頭の回転が遅く、気がきかない人の可能性が高いからだ。本当の意味で器が大きい人というのは、よく気が周り、人の気持ちを的確に察知する能力が高く、多くの経験から広い視野を持ち、それゆえに過ちに関して無意味に咎めない。そんな人のことを言うのではないだろうか。

これは自分に対する戒めでもある。最近ものごとが大したことないと思えるようになってきて、なんとかなるから大丈夫とどっしりすることが増えた。歳と共に少しは見識が深まったのかなと思ったりしたが、実はそれは自分にとってそれがどうでもいいことだから、大したことないと思っているだけで、自分にとって大事なところについては未だにピリピリしてしまうところがある。結局たいして器は大きくなっていないんだなと気づいた。うぬぼれないように気をつけよう。

あなた惜しいわね

思い返してみれば10年くらい前からなんだけど、定期的に「惜しい人間」と言われることがある。同じ人にじゃなくて、全く違う人からそう言われる。
顔であったり、雰囲気であったり、その時々で惜しいと言われる部分は違うけど10年も言われ続けるとだいたいわかってくる。僕は「あとちょっとで素晴らしい状態になる」と言われているのだ。僕はこれ言われる度に「それよく言われるわぁ笑」とか言って自虐話のひとつふたつを出す余裕を見せるけど、実は傷ついているんだ。
こういう場合の惜しいっていうのは、ポジティブにもネガティブにも捉えることができる。ポジティブに捉えるには、あとちょっとが手にはいれば完成できる!と考えればいいだろう。何もかも不足している人は惜しいとは言われないわけで、惜しいと言われる時点でいくつかいいところはあるということだから。
だが僕はやっぱりネガティブに針が振れてしまう…。あと少しの何か。それがわからない限り僕はくすぶり続けるし、中途半端に希望があるだけに、手に入りそうで入らない苦しみがそこにはある。

でも、もうひとつ別の考えもあって、惜しい人っていうのは、何かを埋めるために動くんじゃなくて、足りてるところをさらに伸ばしていくことが必要なんじゃないかということ。惜しい人は「それなりのもの」をより広い範囲で多く集めてきた人なのではないか。何かひとつ得意なことがある。っていうことがやはり大事なのだな。

と、思うことは思うが、僕は今の自分を愛したい。