ハゲがやってくるその前に

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ふと自分がハゲたら…ということを考えた。

僕の髪質はハゲとはある程度遠いタイプだと思う。しかし家系的にはハゲがちらほら散見していたので、自分には無縁なものだとも言えない。

絶対にハゲたくないとどんなに願っても、予期せずやってくるもの、それがハゲだ。厄災に近い。ではそんな厄災に対して僕はどう接していくのか、太古の祖先たちのように、天に手を合わせ祈るのか?サクリファイス。生贄を捧げるのか?

違うよな?

僕は2017年の地球人です。文明と知性を持ってこの厄災と上手に付き合っていけたらと思う。

実は僕は10代のころから、自分がハゲたらということをよく考えていて、30歳くらいまでは「スキンヘッドしかない。スキンヘッドハック」と豪語していた。ハゲって部分的に毛を残すから際立ちハゲになって、「あの人はハゲ」というレッテルが貼られるんだ。では、スキンヘッドはどうだろう?スキンヘッドの人はよっぽどの大げんかにならない限り「このハゲ!」とは言われないのでは?それはなぜか。意志が介在するからだ。「私は自らハゲているんです。」これだ。この意志の力によってバリアができる。
軽く例を出してみよう。ここでは感情的になっているAさんとのやりとり。

 

Aさん 「あんたなんかどうせハゲでしょ!ハゲてるくせに!ハゲ!」

SH  「まあまあ落ち着け」

Aさん 「うるさい!私のことをバカにして!ハゲ!」

SH  「さっきからハゲハゲ言ってるけど…ふふっ」

Aさん 「何がおかしいの!?」

SH  「ハゲていませんけど?あえてハガしているんですけど?以上」

※SH=スキンヘッド

 

完璧くない?

と、30歳くらいまでずっと思っていて、街を歩くハゲくたびれたおじさんとか職場のくしゃみがでかいハゲなどをみては、もっといい生き方もあるのになあ。と上から目線だった。
しかし、ハゲに対する疑問。なぜスキンヘッドにしないのか?という疑問が積み重なっていくにつれ、ハゲにはハゲの理由があるのではないか?と思い始めたのだ。そして気づいたことがある。それは、「環境の急速な変化による違和感」である。いつスキンヘッドにするか。もしかしてそこにハゲをハゲたらしめている原因があるのではないかと思った。スキンヘッドにするタイミングのハゲ加減とそれに対する周囲の反応を桜に例えてみよう。桜の満開をスキンヘッドとする。

 

 

満開      わーきれい!

9分咲き時点  しーん…(誰も気づかない。)

8分咲き時点  おお!絶対こっちの方がいいですよ!

7分咲き時点  お!思い切りましたね!こっちの方がおしゃれですよ!

6分咲き時点  わぁ!どうしたんですか?(この辺りから空気が変わる)

5分咲き時点  ははははは!!

4分咲き時点  しーん…(みんな気づいているが怖くて触れない)

3分咲き時点  なんで!?なんでなんでなんで!?と全員が騒ぐ

2分咲き時点  え!?もう肉とか食べなくていいんですか!?(出家と思われる)

1分咲き時点  心療内科の住所をCCに誰も入れずにメールで送ってくる。

 

 どうだろうか。つまり周囲が「自分をハゲとして確実に認識した」という確信を持った後でなければいけない。早すぎればショックを与え、奇異なものとされるし、遅すぎればハゲハゲと悪口を言われる環境が作られてしまう。

「あーだいぶもうやばいな。もうかなり……えっいや、うわっよく見たらもう……あぶないあぶない。居酒屋で黄桜頼むのは控えよう」

これくらい。これくらいの塩梅で一気に剃り上げるのがジャスト。
でも、このタイミングを測るのって至難の技だと思う。常に相手の反応を見ながら同時にハゲを頭の中で数値化しないといけないから。くたびれ果てたおじさんたちにそんなエネルギーが残っているだろうか。いや残ってない。

そこで!スキンヘッドコーディネーターという職業を作ってみるというのはどうか。
週一回のカウンセリングでクライアント(ここではハゲ)のメンタル面をケアしつつ、定期的なクライアントの人間関係もチェック。場合によっては友人を装ってクライアントに対するイメージまで調査し分析をする。もちろんXデーは1ヶ月前にお伝えし、しっかりと心を整えていただいてからのデビューとなります。

うん。我ながらなかなか社会貢献のできる職業を考えついたと思う。明日から早速法人化に向けて動き出そうと思う。ひとつ懸念点がある。それはアデランスなどと戦争になるだろうということである。

笑いのツボ

大学の時にカルチャーショックを受けたことがある。

僕の大学は電車で2時間のすごく近いところだったんだけど、そのくらいですごいショックを受けた。

何にショックを受けたかというとギャグの感性について。

男性というのは小さいころから「笑い」というものが身近だと思う。だから無意識のうちにその部分を鍛えていると思うんだ。その経験の中で自分が「これは面白くないからやらないでおこう」って思って捨ててきたものが、大学では「面白いもの」とされていた。

この時、非常に頭を抱えたのを覚えている。大学の人が吹き矢のポーズで「フッ」てして来た時は嘔吐しそうになった。

 

そして今33歳。あの頃が再び蘇った。

職場である。

 

職場の人たちの会話が全然面白くないのだ。

またもや僕は頭を抱えることになった。

そしてあまりのショックに冷静に分析してみた。自分は何が面白いのか。そして彼らの何が面白く感じないのか。

ここからは、完全に「自分に正義がある」ものとしてやや強引な理論を展開する。

 

1:常識の範囲

昔、笑いがいつ起こるかという話をどこかで聞いたことがある。松本人志だったかな?

笑いというのは、自分の常識の輪から少しはずれたところに存在していて、その輪の中でも笑えないし、逆に輪から著しく離れたところにあっても笑えない。ということは、笑いのツボの違いは、常識の範囲に原因があるということだ。常識の範囲って何かっていうと、想像力と経験に基づく視野の広さのことだと思う。つまり、視野が狭い人が笑っている範囲ものは、視野が広い人からすると「想像力を必要としない低刺激なもの」として捉えられて笑えないのである。

 

2:繰り返しに耐えられるか

同じことの繰り返しに耐えられるというか、繰り返しと認識していない人がいる。芸人が言う所謂「何回もこする」とか「てんどん」とか言われるものは、繰り返しであると認識していて、「どうでもいいことに異常にこだわる」「異常にこだわる理由は一体なんなんだろう?」という想像力に訴えかけている笑いなんじゃないかと思う。だから繰り返している時、意図的なものが見える。これは僕も面白いと思える。

しかし、職場の人は違う。毎日自然と同じようなことで笑う。一例を出すと職場の「面白い」とされているおじさんは自分がアイドル好きでロリコンであることを毎日言う。ただそれだけ。僕はこれが面白いと思えない。もういいよとなってしまう。

 

3:キャラが立つという笑いが受け入れられない

職場の人の共通点にやたら「キャラづけ」をしようとする傾向がある。こいつはこういうやつだから面白い。笑っていいという感覚。

僕はどちらかと言うと、キャラづけはすぐ飽きてしまう。キャラとかはなくて、普段は普通だけど、ふとした時に出る「異常さ」とかで笑う。職場の人が机の整理をしている時に、「セロハンテープとパンチは紐づくからここ」って言ったのに笑ってしまった。紐づくってなんなんって思って。

 

多分この3つが感覚の違いを産んでいる。

ああ。このまま身近な人と面白いものを共有できずに生きていくんだろうか。

レベルの高い低いはどうでもいい。似た感性の人たちよ。寄ってこい!