笑いのツボ

大学の時にカルチャーショックを受けたことがある。

僕の大学は電車で2時間のすごく近いところだったんだけど、そのくらいですごいショックを受けた。

何にショックを受けたかというとギャグの感性について。

男性というのは小さいころから「笑い」というものが身近だと思う。だから無意識のうちにその部分を鍛えていると思うんだ。その経験の中で自分が「これは面白くないからやらないでおこう」って思って捨ててきたものが、大学では「面白いもの」とされていた。

この時、非常に頭を抱えたのを覚えている。大学の人が吹き矢のポーズで「フッ」てして来た時は嘔吐しそうになった。

 

そして今33歳。あの頃が再び蘇った。

職場である。

 

職場の人たちの会話が全然面白くないのだ。

またもや僕は頭を抱えることになった。

そしてあまりのショックに冷静に分析してみた。自分は何が面白いのか。そして彼らの何が面白く感じないのか。

ここからは、完全に「自分に正義がある」ものとしてやや強引な理論を展開する。

 

1:常識の範囲

昔、笑いがいつ起こるかという話をどこかで聞いたことがある。松本人志だったかな?

笑いというのは、自分の常識の輪から少しはずれたところに存在していて、その輪の中でも笑えないし、逆に輪から著しく離れたところにあっても笑えない。ということは、笑いのツボの違いは、常識の範囲に原因があるということだ。常識の範囲って何かっていうと、想像力と経験に基づく視野の広さのことだと思う。つまり、視野が狭い人が笑っている範囲ものは、視野が広い人からすると「想像力を必要としない低刺激なもの」として捉えられて笑えないのである。

 

2:繰り返しに耐えられるか

同じことの繰り返しに耐えられるというか、繰り返しと認識していない人がいる。芸人が言う所謂「何回もこする」とか「てんどん」とか言われるものは、繰り返しであると認識していて、「どうでもいいことに異常にこだわる」「異常にこだわる理由は一体なんなんだろう?」という想像力に訴えかけている笑いなんじゃないかと思う。だから繰り返している時、意図的なものが見える。これは僕も面白いと思える。

しかし、職場の人は違う。毎日自然と同じようなことで笑う。一例を出すと職場の「面白い」とされているおじさんは自分がアイドル好きでロリコンであることを毎日言う。ただそれだけ。僕はこれが面白いと思えない。もういいよとなってしまう。

 

3:キャラが立つという笑いが受け入れられない

職場の人の共通点にやたら「キャラづけ」をしようとする傾向がある。こいつはこういうやつだから面白い。笑っていいという感覚。

僕はどちらかと言うと、キャラづけはすぐ飽きてしまう。キャラとかはなくて、普段は普通だけど、ふとした時に出る「異常さ」とかで笑う。職場の人が机の整理をしている時に、「セロハンテープとパンチは紐づくからここ」って言ったのに笑ってしまった。紐づくってなんなんって思って。

 

多分この3つが感覚の違いを産んでいる。

ああ。このまま身近な人と面白いものを共有できずに生きていくんだろうか。

レベルの高い低いはどうでもいい。似た感性の人たちよ。寄ってこい!